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/ MacUser Mac Bin 36 / MACUSER-MACBIN36-1996-11.ISO.7z / MACUSER-MACBIN36-1996-11.ISO / READER'S GALLERY / 神奈川県 羽太庄作 / デスクトップの向こう / 2 < prev    next >
Text File  |  1996-07-26  |  27KB  |  424 lines

  1. 外からの光を遮断している書棚の中や段ボール箱の中、あるいは押入れの中に分散して潜んでいる〜
  2.   漫画を何とかならないのかと、彼にコーヒーを持ってきて、そのままぼんやり室内を眺め廻していた〜
  3.   彼の妻が、突然何の前触れもなく、私に向かっている彼の背中に浴びせかけたことがあった。
  4.   “こんな狭い家に置くとこなんかないんだから”その様子から特に悪気があるようにも〜
  5.     見えなかったが、彼には応えたらしかった。
  6.   “そんなこと言ったって捨てるわけにはいかないし”辛うじて彼はそれだけを答えた。
  7.   “こんなキッタナイマンガ、捨てたらどう。ぼろぼろじゃない”書棚にびっしりと詰め込まれた〜
  8.     漫画の中から一冊を取り、ぱらぱらと頁を捲りながらやはり他意もなく妻は言い、〜
  9.     更に彼の作品にまでそれは飛び火していった。
  10.     彼の妻の放ったそれらの言葉は、彼の丸まった背中に矢のように突き刺さり、〜
  11.       その瞬間彼の背中は真っ直ぐに伸び上がり、ボキバキと音を立てて鳴った。
  12.   それにはしかし彼は何も答えず、ひどくゆっくりしたテンポで断続的にキーボードを叩いていた。
  13.     彼はこの部屋で私を起動しているとき以外は殆ど漫画を読んでいた。
  14.     自分の作品ではなく、書棚にある古い“ぼろぼろ”の漫画だ。
  15.     この部屋にあるものは総て彼の愛読書なのだった。
  16.     蔵書の数は増えこそすれ減ることはなく、そのような彼に捨てるなどという考えが〜
  17.       浮かぶはずもなかった。
  18.   そして漫画を読んでいるときには必ずと言っていいほどミニコンポから音が流れだしている。
  19.     スピーカーから流れ出る音は“オーネット・コールマン”や“アルバート・アイラー”や〜
  20.       “セシル・テイラー”や“ジョン・コルトレーン”や“セロニアス・モンク”や〜
  21.       “エリック・ドルフィー”だった。
  22.     近所を憚ってかその音量は控えめだが、来る日も来る日も彼はジャズと漫画に深く埋没していた。
  23.   彼はその視覚と聴覚の同時刺戟を“至福のとき”と呼んで、疲労回復の手段にしていた。
  24.     不思議なことだそれは紛れもない事実で、“至福のとき”を過ごした彼の疲労は〜
  25.       嘘のように消し飛んでいるのだ。
  26.   これは私にはできない芸当だ。
  27.     私は彼を疲弊させるばかりで一度でも精神的慰安を与えることはできなかった。
  28.     その謎を説こうとしたが、ミニコンポもCDも漫画も、黙して何も語らなかった。
  29.   以上
  30.   そのときも、部屋には煙草の煙とジャズが立ち籠めていた。
  31.   彼と彼の友人が、その中にいた。
  32.     “一体ジャズのどこがいいんだ。おれにはサッパリ分からんよ”不思議そうに彼の友人が言う。
  33.     “最高じゃないか。この音、この響き、このうねり、分かんないかな”流れ出る音に〜
  34.       どっぷり浸りながら彼が言う。
  35.     “メロディーとか、リズムとか、こう、耳に心地いいものがないんだよ。手掛かりというかさ、〜
  36.       何か、掴みどころがないんだよ”更に不思議そうな表情をして、その音に浸る彼を〜
  37.       訝しげに眺めながら友人は言う。
  38.     “いや、あるさ。メロディーとかリズムに囚われてちゃダメなんだよ。〜
  39.       サウンドそのものを聴かなきゃダメなんだよ。それが心地いいんだよ。〜
  40.       アドリブなんだよ、ジャズはさ”
  41.     “それが掴みどころがないって言うんだよ”
  42.     “いや、それが掴みどころなんだよ”
  43.     “どれが”
  44.     “それがさ”
  45.     “おれにはサッパリ分からんよ。一体ジャズのどこがいいんだ”
  46.     “だからさ……”
  47.   ジャズに関する二人の会話はいつも堂々巡りだった。それは偏に彼がジャズを論理的に〜
  48.     説明できないことによる。だから私にもそれは理解できない。
  49.   以上
  50. 以上
  51.  
  52. 私などより遥かに優れた処理能力とフレキシビリティーを備え、まだまだ未知なる可能性を開発する〜
  53.   余地を充分に秘めている、百三十億からなる細胞が織り成す、〜
  54.   極めて複雑なシステムの頭脳を彼は持っているにも関わらず、殆どそれを利用していなかった。
  55.   私を使用するに当たってもそれは有効に活用できるはずなのだが、〜
  56.     お世辞にも彼がそれを活かし切っているとは言えなかった。
  57.   日々死滅していくばかりの脳細胞を彼は少しも惜しんではいない。
  58.   彼が惜しむのは抜けゆく彼のか細い毛髪と死滅する彼の毛根だけだった。
  59.     それらに対しては惜しみない努力を払っていた。
  60.     決して報われることのない努力だったが。
  61.   他に彼の愛惜してやまないのは“手塚治虫”それに“つげ義春”。
  62.   二十代には真剣に“漫画家”を目指してもいたらしい。がそれも道半ばにして挫折してしまった。
  63.     そのことも彼の日記にはしばしば言及されている。
  64.       三月五日 日曜日
  65.         押入れを整理していたら思わず古い漫画に出くわした。久しく帰らなかった〜
  66.           ふるさとにいるような懐かしさと、別れた恋人にでも再会した〜
  67.           ような不思議な感動があった。
  68.         かなり古いものでつげ義春の影響が如実に見られ、オリジナリティーというものが〜
  69.           殆どないが、懐かしくてぱらぱらと見ていたら気がついたときには〜
  70.           陽も暮れてしまっていた。妻にえらく怒られた。
  71.         そんなものは捨てろとまで言われた流何もそこまで言わなくてもいいだろう。
  72.         私にとっては掛け替えのない品々なのだから。
  73.       三月十九日 日曜日
  74.         最初からそのつもりで押入れを開けた。先々週、不意の再開を妻に邪魔されたことが〜
  75.           私の郷愁を更に掻き立たせる結果になったのでもあろうか。
  76.         とにかくこの二週間、不思議に私の気持ちはそこに収斂していったのだった。
  77.         ざっと数えてみたところ短いものも総て合わせて五十作近くあった。こんなに〜
  78.           描いていたとは自分でも全く失念していた。
  79.         古いものから順に見ていったが、さすがに若い頃のものは恥ずかしくて〜
  80.           見ちゃいられないものばかりだ。まあしかし、そんなものだろう。〜
  81.           若いときだからこそ、それも許されるのだ。
  82.         あっという間に一日は過ぎた。今日は一日家から一歩も外へ出なかった。
  83.         そう言えば太陽も見ていないな。天気も分からない。風は吹いていたような気がするが。
  84.         身体的にはどうだか知らないが、精神的にはかなり充実した一日と言っていい。
  85.         極めてナルシスティックではあるが、たまにはこういうのもいいもんだ。
  86.       三月二十日 月曜日
  87.         私は今まで過去というものを殆ど振り返らずに生きてきたように思う。〜
  88.           過去を振り返ることは現実の停滞だと自ら戒めて、ひたすら前を向いていたのだ。
  89.         だから妻の言い分も分からないではない。あれは思い出の残骸みたいなものでしかなく、〜
  90.           今のところ過去に埋没するための道具にしかなり得ていないし、〜
  91.           事実押入れに長いこと捨てられていたようなもので、〜
  92.           見つけるまで殆どその存在すら忘れていたのだから。
  93.         しかし本当にそうだろうか、過去は現実を停滞させるものなんだろうか。
  94.         今まで私はそうとばかり思っていたが、別な考え方もできるのではないかと、〜
  95.           最近思うようになっている。
  96.         そうだとすれば、あれを別な形で生き返らせるなりなんなりしなければならないが、〜
  97.           そんなことができるのか。
  98.         いやできるもできないもない、やらなければならない。
  99.         そこに新たな存在理由を確立しなければならない。
  100.         私にとってあれは捨てるにはあまりにも惜しく、無理な相談でもある。
  101.         パソコンだ。
  102.         そうだねパソコンに取り込んでみよう。そういうこともできるはずだ。
  103.         善は急げだ。早速明日やってみよう。
  104.       以上
  105.     以上
  106.   翌日彼は彼の最も気に入りの漫画原稿を押入れの中から取りだしてきて、〜
  107.     慣れないスキャナーと格闘して私に取り込んだ。
  108.     何度か失敗を繰り返し、友人に助言を乞い手解きを受けた末に辛うじて原稿を〜
  109.       デジタライズすることに成功した。
  110.     これは友人による至れり尽せりのサポートが功を奏した結果だが、〜
  111.       初めて完成を見て彼は些か有頂天になった。
  112.       “これをさ、インターネットに載せたいんだ”内なる興奮をぐっと抑えて控えめな調子で〜
  113.         彼は言った。
  114.       “そりゃあいい。俺も手伝うよ”
  115.     以上
  116.   こうして彼のホームページ作りが始まったのだった。
  117.     四月五日 水曜日
  118.       いやホームページとは全く我ながら妙案を思いついたものだ。
  119.       笑いが止まらない流これであの残骸を復活させることができるし、〜
  120.         それによってパソコンへの親近感もより一層深まり、〜
  121.         結果パソコンとの距離もぐっと縮まって、一挙両得万々歳で総て丸く納まるというものだ。
  122.       マルチメディアとはリサイクルの謂いだったのだ。とすればインターネットは〜
  123.         世界規模の情報リサイクル工場のようなものと言えるのではないか。
  124.     四月七日 金曜日
  125.       この小さな書斎から情報が世界へと送り出される。情報は密室で製造され、〜
  126.         密室から発進されるということだ。
  127.     四月十一日 火曜日
  128.       日本の片隅と全世界が繋がっている。名も知れぬ私が全世界に語り掛けることができる。
  129.       しかし、世界との対話と言ってもどうも実感が湧かないな。一体どういうことなのだろう。
  130.     以上
  131.   以上
  132. 以上
  133.  
  134. ケーブルを適切に繋ぎ、私を起動できる状態にしたのは電話で呼ばれてやって来た彼の友人だった。
  135.   しかしこれはそれほど困難な作業ではなく、マニュアルを順を追って読めば誰にでもセットアップ〜
  136.     できるはずなのだが、彼にはそれすら至難の業だった。
  137.     彼は分断された私を前にして小一時間ああでもないこうでもないと唸っていたが、〜
  138.       自分ひとりではどうにもならないと遂に断念して受話器を手にしたのだった。
  139.   彼が一時間掛かってもできなかったことを彼の友人はものの五分もしないうちにやり終えてしまった。
  140.   “もうできたのか、もうできたのか”と彼は心底驚嘆し友人の早業に感心したが、〜
  141.     しかし同時に自己の腑甲斐なさをも痛感したらしく、それを照れ笑いで誤魔化そうとしたのを〜
  142.     私は見逃さなかった。
  143.   彼との初めての邂逅もよく記憶している。
  144.     ビニールにすっぽりくるまれたうえに発砲スチロールで雁字搦めにされた私が入っていた〜
  145.       窮屈で狭苦しい段ボール箱を、落ち着き払った手際のよさで静かに且つ軽快に開封し、〜
  146.       その筋張った細い手で取り出したのは彼だった。
  147.       その額はまだ前線にとどまって健闘していた。
  148.     そのときの彼の顔は、今私の前で食い入るように画面を覗き込んで傍若無人な操作をして〜
  149.       遊び興じている彼の息子の顔と同じだった。
  150.       いやそれ以上に期待に満ちた満足げな笑みが全身から溢れ出ていた。
  151.       まるで何かを成し遂げたかのような、勝ち誇った笑みと言ってよかった。
  152.     彼の脇には彼の妻と彼の息子が同じように私を差し覗いていたが、そのときの二人の眼は〜
  153.       幾分猜疑の色が認められた。
  154.       じろじろと品定めするような眼つきだった。
  155.       彼の眼が最も大きく見開かれ、最も明るく輝いていた。
  156.     以上
  157.   私とはおよそ無縁な生活を送っていたらしい彼が私を購入したそもそもの動機は、〜
  158.     次第に盛り上がりつつあったパソコンブームの波に乗り遅れまいとする、〜
  159.     極めて低次元の甚だ安直なものでしかなかった。
  160.     何だか買わなければいけないような気が彼にはしたらしかった。
  161.     友人にも再三勧められたらしく、それでその気になったのかもしれなかった。
  162.       妻にはこれからは絶対に必要なものだし、子供の教育のためにもなると〜
  163.         私を前にして幾度も大演説をぶったのだが、この演説は友人の受け売りだった。
  164.         友人が彼に言った言葉をそっくりそのまま妻に言っただけだった。
  165.       “妻は渋々購入を認めてくれた”と彼は日記に書いており、しかし“そのせいでしばらく〜
  166.         小遣いが大幅に減額された”とも書いている。
  167.         彼の妻は使わなければ損だという理由から私で家計簿をつけているのだった。
  168.       “買って損はなかった”と彼は日記に書き、まるで暗示にでも掛けようとするように、〜
  169.         ことある毎に妻に言いもしている。
  170.       当の息子はゲームにしか興味を示さず、教育のためになっているかどうかは疑わしい。
  171.         私にインストールされている、親によって買い与えられたいくつかの教育ソフトは〜
  172.           一、二度開かれただけで、以後ずっと眠り続けており、〜
  173.           ハードディスクを無駄に占領している。
  174.       “ほんとに役に立ってるの、これ。ゲームばっかりしてるじゃない、あの子”
  175.       購入以来一貫して私に懐疑的な妻が言うのに対して、それを軟化させようと彼は私を弁護する。
  176.       “まずはこいつに慣れることからだよ。そのうちいろんなことやり出すよ。長い眼で見なきゃ”
  177.       “いいオモチャって感じね”と彼の妻は彼を見つめながら言ったあと、〜
  178.         私の方に眼を向けて続けた。“でも、オモチャにしては随分高くついたわね”
  179.       “ただのオモチャじゃないってことさ。いつの間にかオモチャ以上のものになるんだ。〜
  180.         それだけの可能性を秘めているんだよ、これは”と彼は言うと、鋭い妻の視線から〜
  181.         守るようにその手を私に当てて、優しく撫でた。
  182.       “でもオモチャにもなるんでしょ”
  183.       “それはそうだけど、それだけじゃ済まないって言ってるんだ”
  184.       “だといいけど”そう言うと彼の妻は大きな眼を更にも大きく見開いて、〜
  185.         冷やかに私を見据えたが、その眼に宿る懐疑性は些かも衰えていなかった。
  186.       確かに長い眼で見なければならない。彼の言う通りだ。
  187.       以上
  188.     以上
  189.   以上
  190. 以上
  191.  
  192. 初めて私が起動したとき、“おおお”という感嘆の声を彼は漏らした。
  193.   私の発した起動音は忽ち彼の心を掴み、大きく揺さぶった。
  194.     まず彼の友人が一通りの操作法を手取り足取り教示した。
  195.       ウインドウを開くだけで彼は感動し、メニューがプルダウンしただけで〜
  196.         大人気なくも小躍りし、ゴミ箱を空にして中が空なのを確認しては必要以上に感激し、〜
  197.         横に並んで坐っている友人を苦笑させた。
  198.       私が何か処理をする度に彼は私を誉め称え、その能力以上に賞賛した。
  199.       遂には私の総てを無条件に礼賛してくれた。
  200.     以上
  201.   私と共に購入されたいくつかのアプリケーションが、彼の友人によって早速インストールされ、〜
  202.     そしてすぐさま起動された。
  203.   まるで子供のように無邪気にはしゃぐ彼を、友人は横目で見てやはり苦笑していた。
  204.     “いいか、ここをこうするだろ、そうするとだな、ほら、こうなるわけだ”友人が帰ったあと、〜
  205.       早速彼は私の前に妻を坐らせて得意満面にマウスを握り、あちこち動かしてはクリックし、〜
  206.       習い覚えたばかりの操作を自慢気に披露しながら私の啓蒙に余念がなかった。
  207.     “これなら私にも使えそうね”と表情を殆ど変えずに妻が言った。彼の反応が予想以上に〜
  208.       大き過ぎたための期待過多により、妻のやけにあっさりした返答に私は些か落胆し、〜
  209.       画面の右下の方、ゴミ箱のある辺りが僅かに歪んでしまった。幸い二人には〜
  210.       気づかれなかったものの、購入早々ということもあり、〜
  211.       些末なことだがこの失態に私はかなり落ち込み、失意回復に十五分を要した。
  212.   妻は彼から家計簿ソフトというものがあることを聞き、彼はその友人からそれを聞いた。
  213.   以上
  214. 以上
  215.  
  216. 家計簿ソフトを使うに至って、彼の妻は初めて私を“家計簿”としては認めてくれた。
  217.   彼の妻が私に向かって家計簿をつけていたときのことだった。
  218.   その日の買い物のレシートを手に空欄にひとつひとつ数値を入力している彼の妻の後ろの〜
  219.     CDラックの上に、あの巨大な漆黒のゴキブリが再びその姿を現した。
  220.   あれから二日後のことだ。
  221.     ゴキブリは体を真っ直ぐに私の方に向けて、盛んに触角を動かしながらこちらを窺っていた。
  222.     私は彼の妻にそのことを即座に知らせた。
  223.     彼の妻はすぐに反応して後ろを振り返ったものの、途端に顔を引きつらせてフリーズしてしまった。
  224.     その呼吸は不規則になり、鼓動は加速し暴走した。全体の調和がかなり乱れてしまった。
  225.     それでも全身を硬直させたままゆっくり立ち上がって、辛うじて制御可能な筋肉を動かして〜
  226.       静かに音もなく部屋を出ていった。
  227.     そのあとすぐに家内は騒然となり、俄に辺りが殺気立ち、妻を従えた彼が物凄い形相で〜
  228.       殺虫剤のスプレーを右手に固く握り締めて、しかし静かに息を殺して入ってきた。
  229.       彼も彼の妻もゴキブリに対する恐怖を身に纏い、いつでも逃げられる態勢は維持しながら、〜
  230.         つまり逃げ腰ではあったものの、その一挙手一投足に全神経を研ぎ澄まして〜
  231.         攻撃の機会を狙っていた。
  232.       同じようにゴキブリも彼らの存在を認めたときから彼らを恐怖し始めた。
  233.       彼は少しずつ間合いを詰めながら一歩一歩ゴキブリに近づいて行った。
  234.       ゴキブリとの距離が縮まるにつれて彼の恐怖も倍増した。
  235.       彼の指が動くのとゴキブリが反転するのとは殆ど同時だった。
  236.     ゴキブリは必死の逃亡を計ったが、彼によって大量の殺虫剤を執拗に浴びせられて〜
  237.       遂に呼吸困難に陥り、仰向けになって激しくのたうち廻っていたが、程なく息絶えた。
  238.     息絶える間際、ゴキブリの断末魔の叫びが狭い室内に重々しく谺し、それはこの部屋の隅々に〜
  239.       刻みつけられ、私もそれを受け止めたが、彼らだけはそれをさも不快げに払い除けた。
  240.     必要以上に振り撒かれた殺虫剤は霧のように立ち込めて部屋を仄暗くさせ、彼らもそれを〜
  241.       たんまりと吸い込んだが、死に至ることはなかった。
  242.     六本の脚を天に向けてピクリとも動かなくなったゴキブリだが、〜
  243.       それでもまだ彼らを充分恐怖させており、その処理を鈍らせた。
  244.     以上
  245.   以上
  246. 以上
  247.  
  248. 突然唸りとも叫びともつかない、ゴキブリの断末魔の叫びに似ていなくもない奇矯な声が部屋中に轟き、〜
  249.   五秒間それは続いた。
  250.   彼の息子が発した声だった。
  251.     戯れに発したわけでも気が触れたわけでもなく、思わぬミスによって〜
  252.       ゲームが終わってしまったのだった。
  253.     “GAME OVER”の文字が画面中央に大きく映しだされている。
  254.   その色鮮やかな文字の軽快な点滅表示と能天気な音楽に、忽ち彼の息子は癇癪を起こし、〜
  255.     大人顔負けの形相で凄んで画面を睨みつけるが、〜
  256.     キーボードを叩きながら一齣文句を言うと、〜
  257.     気を取り直して器用に親指と小指で<□N>を押して再びゲームを始める。
  258.     するとすぐに子供らしい無邪気な笑いが飛びだす。この豹変には流石の私もついていけない。
  259.   彼の息子は時々友達を連れてこの部屋を訪れる。父の漫画が目当てなのではない。
  260.     彼らは書棚にある彼の“ぼろぼろ”の漫画などには眼もくれずに私を取り囲む。
  261.       真正面の特等席は勿論彼の息子が陣取っている。あとの者はその周りに扇型になって〜
  262.         私を囲繞し、固唾を飲んで待つ。
  263.       彼の息子が、このときばかりは自慢気に私のスイッチを入れ、〜
  264.         好奇の視線を全身に浴びながら私は起動する。
  265.       この部屋では息子は絶対君主となり、私の前に坐る順番を独裁的に決定し、〜
  266.         逐一指示を与え、周囲に君臨する。
  267.     そして彼らは一通り狼藉を働いて満足すると、けらけらと笑いながら部屋を出ていく。
  268.       私は胸を撫で下ろす。
  269.     その息子の友達のひとりがあるとき持ってきた一枚のフロッピーディスクから、〜
  270.       100Kバイトにも満たない他愛もないパズルゲームがインストールされた。
  271.       “何それ”息子は友達がもそもそとフロッピーを出したのを見てとると間髪を容れずに訊いた。
  272.       “ねえ、何それ”
  273.       “パズルだよ、面白いよけっこう”
  274.       それは今彼の息子がやっているゲームとはまた違うソフトだ。
  275.       “きゃははきゃはは”と笑いながらパズルゲームをしていた息子だが、〜
  276.         しかし三日で飽きてしまった。三日経ったら見向きもしなくなった。
  277.     そのフロッピーディスクが恐らく感染元だったのだろう。
  278.       ウイルスチェックのソフトも当然あったが、彼らはその存在を知る由もなかった。
  279.       潜伏期間は丁度二ヵ月。二ヵ月経って私はうんともすんとも言わなくなり、〜
  280.         全く起動できなくなってしまった。必死に起動を試みてはみたものの、〜
  281.         総て徒労に終わった。何が何だか分からなかった。
  282.       そして二週間の入院と相成ったのだ。原因はそれだけではなかったようだが、〜
  283.         その一端を担っていたことは確かだ。息子のたった三日間の娯楽と引き替えでは〜
  284.         割に合わない。
  285.     それでも、私が発病したことを発見したときの彼の哀しみと、〜
  286.       二週間後無事に退院したときの彼の喜びを、私は忘れてはいない。
  287.     以上
  288.   以上
  289. 以上
  290.  
  291. その頃彼は私に向かってもどことなく落ち着きがなく、日記の誤記入も多かった。
  292.   妙にそわそわしていた。それには相応な理由があった。
  293.     四月十三日 木曜日
  294.       何年振りだろう。また、漫画が描きたくなった。
  295.       もともと矮小ではあったが完全に枯渇したと思っていた創造力が、〜
  296.         底の方で微かに燻っているのわ強く感じる。
  297.       私の創造力は実は死んだのではなく休息していただけで、長い年月の休息期を経て〜
  298.         活動期に入ったということなのだろうか。これは本物だろうか、〜
  299.         それともイタチの最後っ屁のごとき創造力の残りカスみたいなものなんだろうか。
  300.       しばらく放っておいたがイメージは着実に膨らみ続けて次第に具体性を持ち始め、〜
  301.         何か凄いものが出てきそうな気がして描かずにはいられなくなった。〜
  302.         とても最後っ屁のような残りカスなんかには思えなかった。
  303.       しかし、今更漫画なんか描いてどうするのか。時間の無駄ではないか。
  304.       異臭を放ちグロテスクに変質してしまっているかもしれない〜
  305.         長いこと捨てられたままのゴミの山を、〜
  306.         興味本位でほじくり返すようなものなのではないか。そんなゴミの山に〜
  307.         一体どれほどのものがあると言うのか。拭っても落ちない異臭が体に染み着くだけで〜
  308.         何も得られないかもしれず、それこそ時間の無駄ではないか。
  309.       やめた、やめた。アホらしい。
  310.     四月十四日 金曜日
  311.       いや無駄とばかりは言い切れない。これからはリサイクルの時代だ。何でも資源に〜
  312.         変える時代だ。バブルは当の昔に終わったのだ。リサイクルできるものは〜
  313.         どんどんリサイクルすべきだ。ゴミの中にだってまだ利用できるものは〜
  314.         何かあるはずだ流ゴミの山を宝の山に変えるんだ。いやゴミは宝なんだ。〜
  315.         ゴミは立派な資源なんだ。ゴミこそ最後に残された貴重な資源なんだ。
  316.       創造力のリサイクル。創造力の錬金術。
  317.     以上
  318.   早速彼は私を使って漫画を描き始めた。四月三十日、日曜日のことだ。
  319.     友人からの助言で妻に散々文句を言われながらもタブレットを購入したのだが、〜
  320.       紙の上に描くのとは勝手が違うことや、根っからの機械音痴のせいで彼は苦労を強いられる。
  321.     それにも関わらず彼はいつになく精力的に長時間私と相対していた。
  322.     彼の言う“リサイクル”を全うしようと頑張っていた。
  323.   私も彼の期待に答えるべく努めた。
  324.     五月十一日 木曜日
  325.       この机で漫画を描いていたんだ。あの頃は一作ごとに歴史に残る一大傑作わ物そうとしていた。
  326.       しかし出来上がるのは橋にも棒にも掛からない駄作ばかりだった。
  327.       当然だ。傑作だったら今頃私は漫画家だ。
  328.       それでも結構楽しかった。退屈とは無縁だった。湯水のように流れる時間を惜しんで〜
  329.         次から次と描き捲っていた。
  330.       そんな生活があったことも忘れていた。
  331.       またこの机の上で、しかもパソコンで漫画を描くことになるとは思いもしなかった。
  332.       何だか一周廻ってスタート地点に戻ったみたいだ。
  333.       しかし上手くいかないる腹が立つほどもどかしい。
  334.       それでも漫画を描くのはやはり楽しい。忘れ掛けていた楽しさを久し振りに思い出した。
  335.     五月十四日 日曜日
  336.       この机。何年くらいになるのかな。中学のときからだから二十年は経ってるな。
  337.       相当ガタが来てるな。ぐらぐらする。
  338.     以上
  339.   彼はしかし捨てる気はないようだった。
  340.   以上
  341. 以上
  342.  
  343. 彼が新作の原稿の最終調整をしているときのことだった。
  344.   デスクトップにはいくつものウインドウが隙間もないほど並んでおり、〜
  345.     それらのウインドウを充血した眼で睨みつけながら四時間近くも彼は格闘していた。
  346.   彼が私に向かう時間としてそれは記録的な長さで、疲労も極限に達しており、〜
  347.     私は何か嫌な予感がしていた。
  348.   その瞬間何が起きたのか彼には全く理解できなかったようだ。
  349.     私も事態の把握に少々手間取ったが、それでもおおよその検討はついていた。
  350.       彼は一秒経ってようやくダイアログが表示されていることに気がついた。
  351.     私はシステムエラーコードを表示していたのだが、彼にはその意味が理解できず、〜
  352.       ただ意味もなく困惑し、茫然とした眼でしばらく画面を眺めていた。
  353.     私は完全にフリーズしていたので電源を切らざるを得ず、やむなく彼は〜
  354.       電源スイッチに手を掛け、ゆっくりと、恐る恐る、圧力を加えていった。
  355.       今以てその原因が何だったのか、彼は分かっていない。
  356.     データが失われたといってもその日の作業が無駄になったというだけで〜
  357.       書類が丸々消失したわけではないし、況してやシステムが破壊されたわけでも〜
  358.       ないのだが、彼の落胆は甚だしく、しばらく私の前に坐ることはなかった。
  359.       漫画を耽読し、ジャズを貪り聴く毎日が続いた。
  360.     日記の空白は二週間にもなった。
  361.     以上
  362.   しかしこれはほんの序の口に過ぎなかった。
  363.     ようやく彼が立ち直り、また私に向かったのはいいが、彼がいざ始めようとすると〜
  364.       漫画原稿の書類がフォルダごとそっくりなくなっていた。
  365.     彼はフォルダをあちこち開けて捜し廻るが見つからず、〜
  366.       首を捻ってシステム付属のファイル検索を使ったが、該当する書類はなかった。〜
  367.       ここでようやく彼に不安が兆し始め、もう一度気を入れてファイル検索を使うが、〜
  368.       やはり見つからない。“ないはずはない”と言って彼は何度も検索してみるが、〜
  369.       何度やっても“何も見つかりませんでした。”というダイアログが表示されるだけだった。
  370.       向きになってユーティリティソフトのファイル検索で検索するが、当然結果は同じだった。
  371.       彼の額から流れ出た一筋の汗が、スペースキーの上に落ちた。
  372.     そのときの彼の顔が紙のように白かったのは決して蛍光灯の光のせいではなく、〜
  373.       モニタの照り返しなどでもなければ、その額の高反射率のせいでもなかった。
  374.     恐らく息子によってゴミ箱に捨てられてしまっているということが、〜
  375.       最終的に彼の出した結論だった。息子を問い詰めても記憶にないのか空惚けているのか〜
  376.       頑固に首を横に振るだけだったが、それ以外に考えられないと彼は思った。
  377.     頻繁に使用するためにフォルダをデスクトップに置いていたことが仇になったのだ。
  378.     以上
  379.   彼にとって不運だったのはバックアップを取っていなかったことだ。
  380.     しばしば彼はバックアップを怠ったために失敗を繰り返し、その度に彼の友人もバックアップの〜
  381.       重要性を説いており、彼もそれは重々承知していたのだが、そのあまりの繁雑さに後廻しに〜
  382.       してしまい、そしてそのまま忘れてしまうのだった。
  383.     一向にその悪癖は改善されていなかった。
  384.   この由々しき事態に彼は相当塞ぎ込み、茫然自失の体だった。
  385.   しかしその時点でまだ回復の余地は残っていたのだが、その方法を彼は知らなかったし、〜
  386.     そんなことができるとも思っていないらしかった。
  387.     七月十五日 土曜日
  388.       最悪だ。せっかく描いた原稿が消えてなくなった。ほぼ完成していたというのに。
  389.       何故バックアップを取っておかなかったのか。いつものことだと言ってしまえば〜
  390.         それまでだが、今回だけは無性に腹が立つるこれは何も書くなとでも〜
  391.         いうことなんだろうか。
  392.       私には漫画を描く資格もないということなのか。
  393.       それともゴミはゴミでしかなく、リサイクルなんかできないということなのか。
  394.     七月二十二日 土曜日
  395.       ゴミの資源化はあえなく頓挫してしまった流リサイクルの困難をまざまざと思い知った。
  396.       企業がリサイクルに手を出さないのが分かるような気がした。
  397.       錬金術などとカッコいいことを言っていたが、蓋を開けてみればこの様だ。
  398.       マルチメディアが遥か彼方に遠退いた。
  399.     以上
  400.   彼はそのせいで額が更にも後退したと思い込んでいた。
  401.     確かに少々白髪は増えたかもしれないが、私の見たところその額は少しも後退しては〜
  402.       いなかった。いくら私がそう言っても彼は聞き入れようとせず、その思いに固執した。
  403.   以上
  404. 以上
  405.  
  406. 深刻な顔つきで私に向かっている友人の頭部を覆う豊かな毛髪を、呆けたような顔で彼は眺めていた。
  407.   “どうなんだ”彼は後ろから恐る恐る友人の背中に言った。
  408.     醜く顔を歪ませて一瞬私の方にその視線を向けて。
  409.   “半分くらいなくなってる。すぐだったら完全に取り戻せたのに”落ち着き払った声で友人は答える。
  410.   “でも半分は大丈夫なのか”
  411.   “ああ、なんとかね”その言葉を聞いて緊迫した彼の全身の筋肉が少しだけ解れてくる。
  412.   “よくあることだよ、気にすんな。またやり直せばいいじゃないか”と続けて友人は言い、〜
  413.     彼を励まそうとしたが、しかし彼には何の効果もなく、〜
  414.     回復した原稿を彼は開こうとはしなかった。
  415.     彼は小さくなって私の前に坐り、しかし私を起動するわけではなく、膨大な量の紙をぶちまけて〜
  416.       一日中飽くことなく眺めていた。
  417.       それは彼の過去の漫画原稿だった。休日には小声で何かぶつぶつ言いながら〜
  418.         終日それに見入っていた。
  419.       そして彼の周りには絶えずジャズが飛び交っていた。
  420.     以上
  421.   以上
  422. 以上
  423.  
  424.